場所:ネパール ボガル村
日程:2019/03/03-2019/3/10
メンバー:渡部2年、塩谷1年
3/3
ネパールはボガル村への長い旅は、空の白みとともに始まった。
背負い慣れたバックパックの横には見慣れないボストンバック。それは、ボガル村の子供たちへのボランティア提供品だった。
大きな荷物ふたつを担ぎ電車を乗り継ぎ、なんとか成田空港へ。出発便が表示された大きな案内板が印象的だった。
手荷物検査、身体検査を終えパスポートチェックをしようとすると、なんとパスポートをかざし顔をディスプレイに移すだけの全自動であった。初めての海外が驚きの連続なのは言うまでもないだろう。
そういえば、飛行機の席についている画面も進化していて、到着までの時間がリアルタイムで反映されたり、機外カメラを見ることもできた。
今回の旅は、香港で乗り継ぎカトマンズを経て、ボガル村まで乗り合いジープでむかう。香港国際空港はとにかくでかい!港内に地平線があるようだ。先はかすんでみえなかった。
それとトランジットの間、空港内を探検していたときに日清のカップラーメンをみつけた(味は全部シーフードベース。日清はどこの国でもうまいのだ。)。そのお値段18香港ドル。買うわけはなかった笑
現地時間19時、香港を後にして一同カトマンズにわたる。(いまさらながら、メンバーは2年渡部と1年塩谷。いずれもネパール未経験である。)。
到着はトリバブン国際空港。(機内食はすき焼き風煮とそば、パン。もう一食はハッシュドポテト。書き忘れた)
カトマンズの第一印象は、言われていたほど寒くない。湿度も日本とおなじくらいかな。とか思っていたら、あれ、搭乗口につながるあの蛇腹のパイプみたいなやつなくね!?
なんとトリバブン国際空港は平屋なのである。ゲートはあるが、そこからは荷物運搬車が横を走ってるところを飛行機の下まで歩き、飛行機から延びる階段を上って搭乗する。
あたりを照らされ、遠く風景はかすんでいる。雨は降っていないし、標高6000m級ほど高地なわけでもないので雪や雲が足元にあることもない。
大量の砂ぼこりがそうさせているのである。これはネパールにいる間ずっと感じることであるが、とにかく砂ぼこりと排ガスがひどい。その影響が空港にも表れていたのだ。
ネパールの空気は独特である。砂っぽさに排ガスとスパイスの香りがまじり、市内だとたまに下水臭もする。正直、初めて行く人にとっては1週間ほどでまいってしまうと思う。
空港を出ると、すぐツルさんとサンタマンさんと合流できた。お二方は、今回の旅のサポーターだ。ツルさんは青学の遠征では何度もお世話になっているのだ。
早速、ツルさんの手配してくれた車に乗り込み今日のホテルに向かう。道中窓に映るカトマンズは、徐々にほぼ真っ暗からポツポツと灯りがともり、飲み屋街はネオンがきらめく。
実はこの日は、仏教の神様の一人、シヴァをたたえるお祭りがちょうどあり、そのイルミネーションの光もあった。それと、ネパールの道路は基本ガタガタである。首都カトマンズでさえ、ところどころ大きな割れ目と穴があり、交通事情がよいとはいえない。信号も止まってたし。バイク多すぎるし。
宿泊したホテルは、観光で栄えるタメル地区に構えるアスターホテルというところだった。通例、遠征などでお世話になるフジホテルはその裏側だ。
受付のボウイは英語も話せるので安心だ。部屋にはいると少し埃っぽい。せっかく花粉を逃れてきたのにここでもくしゃみに苦しむのか。。
部屋のコンセントは、プラグがいづれの形状でも対応するものだと発見し、テレビ番組ではクリケットが盛んに放送されることも発見し床に就く。
まだ旅の始まりだ。。。
3/4
ネパール二日目。遅めの昼食をとる。
メニューは、オムレツにトースト、野菜炒めにフルーツのもりあわせであった。見た目は柿だが、風味が南国チックな味がする。
日本人の口にもあい十分おいしかった。ここのホテルは屋上で朝食をとれる。そこからはカトマンズ市内を一望できるスポットでもあった。
遠くには今日いくスワヤンブナートがみえる。またカトマンズは気候が日本と異なり、雨季乾季がある。
そのため屋上からみえる建物のうえは皆、給水タンクが備えつけられていた。アスターホテルにもタンクがあり、また自家用のろ過機もあった。
ただかなり手作り感があり、ホテルの水が危ないやもしれないとは思った。用心されたし。
この日は、カトマンズの散策とお土産などの買い出しの日だった。ただ、ツルさんダンクマールさんとの観光は昼下がりからだった。塩谷とふたりタメル地区を歩く。
昨夜はまっくらで気づかなかったが、今日はカトマンズの街並みがよく見える。割れたアスファルトやゴミがそこらじゅうに落ちているのが印象的だった。また砂ぼこりで地面が少ししか見えない。
タメル地区は観光客の町といっても差し支えがない。狭い道には露店がひしめき合っている。多くは、カシミヤをつかったストールやニット製品の店や、トレッキングショップ、ククリナイフを扱っている店、お香や石鹸、お茶を売っている雑貨屋等がある。民族衣装を楽しめるレストランもたくさんあった。また、ネパールは日本とおなじ左車線を車が走ることと救急車のサイレンが日本と似ていることも気づいた。
お昼、ホテルに戻りツルさんたちと合流する。四人でバイク二人乗りしてスワヤンブナートに向かった。マスクやニット、サングラスはバイクや車に乗る時にこそ必要になってくることを実感した。
砂で目があかない!まず日本ではこんな体験はできないだろう。ニ十分もバイクに揺られればスワヤンブナートにつく。
スワヤンブナートは小さな丘に寺院やストゥーパが立っているので有名な観光地である。駐車場から早速新たな発見があった。野生の犬と猿が隣同士仲良さそうに並んで寝ていたのだ。ネパールは都市部でも日本では見かけないような動物がたくさんいる。
鶏はよく家で飼われていて、野犬もそこらじゅうにいる。あとハトでもカラスでもない謎の鳥が電線にとまっていた。
スワヤンブナートでは前日、シヴァ神のお祭りがあったためカラフルな旗の飾りつけがされていた。右から空の青、雲の白、火の赤、木の緑、土の黄を表す旗である。
祭の時に年一回買い替えるのだそうだ。また祭りのときには子供たちが路地にひもを張って、通行人にチップをねだる。特に観光客にはしつこいので、どつかないように注意。
観光をおえ近くのレストランで遅めの昼食の昼食をとる。昼ご飯は水牛のモモ(中華の小籠包みたい)にチョウメンという焼きそばのようなものだった。
ネパールに行く前、やりたいことの一つに水牛をたべるというものがあった。水牛は牛なだけにうまみなどが似ていたがすこしあっさりしていた。干し肉がつかわれていた。
午後からはタメルのKALA PATTHAN TREKKING STORE というツルさん行きつけのお店で買い物をした。THE NORTH FACEのトレッキングパンツやシューズ、ザックを買った。
日本の半額以下で買えるのがネパールの醍醐味の一つであろう。夕飯はマクドナルドっぽいM.C DONALD RESTAURANTなるところでタンドリーチキンとナンを食べた。
ホテルに帰り、明日の準備をして床に就こうとすると、塩谷が近くの雑貨店にいこうといいだしたので、歩いて三分ほどのDTマートというコンビニっぽいところに。
水1.5Lが30ルピー(日本円換算で30円)でかえた。
3/5
この日は日が昇る前に朝食をとった。まだホテルの屋上が開いてないのでルームサービスぽいのでバナナゆで卵マンゴージュースクッキーで簡単な朝食をとる。
ツルさんたちとジープステーションに向かう。この日はいよいよボガル村へ出発する日だ。狭いジープに後ろ四人、真ん中四人、まえ三人ぎゅうぎゅう詰めの状態でのる。
謎のネパール民謡が爆音でながれ、横揺れ縦揺れが激しいので同乗者がもどしたりと散々ではあったが、途中村の停留所のご飯どころでお昼休憩をとる。ダルバートはネパールの主食で手で食べるわけだが、まさかこんな停留所で洗礼を受けるとは思わなかった。
ダル(ダル豆を煮込んだスープ)をごはん(バート)にかけ、少しづつ混ぜて食べる。味はスパイシーで日本人にもあいおいしいが、ここでダルバートを食べることがのちにとてつもなく大きな影響になるのは、まだ知る由もない。村につくと、泊まる予定だったチョンべさん宅が、息子さんのお子さんがご誕生されたとかで忙しく、かわりにカンネさん宅にお邪魔する。
ここでもダルバートをごちそうになる。味も停留所のもののようでおいしい。またネパールの家庭ではチャイやジャンジャーティーがよくふるまわれる。現地では、チャーとブラックティーと呼ばれる。
またカンネさんのククリナイフも披露してもらった。これで鶏をさばいてダルバートの材料とする。
部屋はカンネさん息子さんのを用意していただいた。このころからおなかの調子が悪くなる。隣を見ると塩谷もうんうんうなっている。なんとか寝て気を紛らわそうにも非常にしんどかった。
薬を飲んで本を読んでいるといつのまにか寝てしまっていた。事件が起きたのはそこから四時間後くらいの0時くらいだろうか。隣から突然叫び声が聞こえた。と同時に異臭が部屋を満たす。
塩谷がベッドにもどしやがったのだ。おれも理性で我慢してたのに。おなじへやにはツルさんも泊まっていたので助けを借りてなんとか処理する。
のんだことはないが硫酸バリウムを飲んだようなお腹だ。気持ち悪い。ただ目を閉じて朝を待つしかない。山岳地帯の夜はしばしば長く感じられるものだ。
3/6
気分がわるく寝覚めの悪い朝をむかえた。まだお腹が気持ち悪い。夜中に何度もトイレにいっていた。ボランティア当日に大丈夫だろうかと不安を覚える。
起きてすぐに近くの池まで散歩する。ボランティアで村に来た時の恒例らしい。ボガル村は、村とはいえ一軒一軒が50mほどはなれていて、しかも斜面に村がつくられている。その頂上に向け歩くと池が存在する。
そこは仏教にまつわるところらしく線香をそなえる。そこから北にまわるとヒマラヤを一望できる場所があった。残念ながら、エベレストはみえなかったがひとまず持ってきたドローンで風景を撮影する。
朝の散策をおえ、カンネさん宅に戻る。昨夜嘔吐した塩谷ならともかく、まだ気持ちが悪かったので朝ごはん昼ご飯を辞退した。お昼から学校でボランティア活動だ。
カンネ宅からボストンバックとザックをもっていく。学校につくと、すでに200人ちかい村人が集まってくれていた。式の段取りなどを先生やスタッフたちと確認したあと、聞きとり調査の内容などを再確認する。
いよいよ歓迎式典が始まった。といっても近所の公園を一回りおおきくしたような広さのグラウンドに椅子を輪に並べただけの簡素な会場だった。
ただ精いっぱい歓迎してくれていることがわかる。言葉が通じなくとも、式の間、先生の話などを聞くにつれて心を通わせることができたと思う。
一通りの話がおわったところで、今度は歓迎と親交の証として、シャクナゲの花の花飾りをいただいた。首に通すものであったが、あまりに村のみなさんがつくってくれたために目の高さまでシャクナゲに埋もれる。
手厚い歓迎に胸が熱くなる。子供たちといっぱい写真も撮りいい思い出だ。ボランティアの品の提供もうまくいった。子供たちに1人につきノート1冊と鉛筆2本、制服1着がいきわたるようにした。
そのほかにも、学校には英語の絵本、色鉛筆、鉛筆削りにけんだまやフリスビーを寄贈し、村に衣類や雑貨を販売して、学校にその売上金の寄贈をした。
村の発展を望むばかりだ。最後には、今度のボランティア活動に活かすため村の子供たちに聞き取り調査をした。将来の進路や英語教育についての質問である。
意外にも、学校卒業後村をでていく子供たちが少ない結果となった。青学山岳部にこれからはいる後輩たちは、今後の活動の方向性がどうなるかにしろ、ぜひとも活用してほしくおもう。
無事ボランティアを終えた我々とツルさんたちは、ダンクマさんおじさん宅でお昼休憩をすることにした。
ただ、まだまだおなかの不調が続いている。式中も気分が回復したわけではなかった。裏で何度もトイレに行ってし。早々にしておじゃましてカンネさん宅の部屋に戻る。
結局この日は終日おなかがいたくて夕飯もたべずに寝てしまった。けれども、あしたはもっといい日なるんだろう。
3/7
朝3時起床。しばらくベッドで待機して、4時には乗合タクシーが村の道に到着した。朝早いのに、カンネさん、孫のソフィアちゃん、ダンクマールさんのお父さんまで見送りに出てくれた。何度もダンニャバードとお礼を言いながら、頭を下げて感謝を伝えられるだけ伝えた。真っ暗で、星もよく見えていた。往路と同じく6人乗りくらいの四駆に12人乗りでおしくらまんじゅうで揺られ続けた。街灯もないので、ガードレールなしのつづら折りの無舗装道路はヒヤヒヤものである。それが2時間ほど続くとやっと空が白んできて、最初の休憩。標高は2500メートルくらいなので、息も白くとても寒い。小さなサービスエリアのような場所で朝飯だ、といいたいところだったが、腹の調子がずっと悪いので、温かいチヤと既製品のマドレーヌみたいなものを一つだけいただき、すぐまたヤン車のようにステッカーだらけのタクシーへ。ここで8時くらい。朝寒いだけあって、晴れたこの日は、遠くまでよく山が見えたので、ツルさんが気を利かせてヒマラヤの山々がよく見えるポイントで車を止めるように言ってくれた。澄み渡った空と奥に見える山々。メラピークや、チョオユー、エベレストなど、来ないと見れない有名な頂上が、遠くではあるが、生で確実に自分の目で見られたことはとても貴重な経験になった。
そこからまた、ずっと道は続く。舗装道路、土の道路、砂利道、小川、ヤギの群れ、なんのその。TATAというインド製MT車はたくましく進む。ぼくたち乗合客はずっと、左右は赤の他人に挟まれ、上下に揺られていた。でも、復路の終わり頃には疲れと慣れで、さらにインド映画風のノリノリBGMがガンガン鳴っているなかでも寝られるようになりました。50キロ制限の道路で90キロぐらいを出し、頭に大きいカゴを背負ったおばあちゃんにパラリラパラリラとクラクションを鳴らす。まさにヤン車である。途中で警察官の駐在所のようなところがあり、ドライバーはいちいち停車する。これは、道幅の狭い山道で事故が起こらないよう、チェックポイント間を一定以上の時間をかけて通過しないと罰金が科せられるので、通過時間の確認などをしているらしい。なるほど、ほぼ単線道路、単車線なので、事故が起こると、田舎に住む多くの人の物流に大打撃であろう。それを回避しているんだろう。チェックポイントの周りには、サービスエリアのごとく商店や休憩所がある。昼食もそのような場所でチキンカレー付きダルバートを注文した。テーブルの水を飲もうとして、ボトルがすでに空いていることに気づく。去年のネパール遠征の一員松原さんから聞いていたが、しっかり気をつけないとうっかり生水を飲んでしまうのだ。ちゃんとお金を出して、未開封であることを確認しながら水を飲まないと、すぐピーピーになってしまう。ここで昼の11時くらいである。そこからもずっと、川と山とヤギを横目に進んでいく。15時ごろ、ついに往路最初に立ち寄ったロードサイドショップにたどり着いた。そこでは時間調整でしっかり休み、しばらくすると市街地へ。ついに来たかと思ったのが16時過ぎ。往路を考えるとそろそろ到着だ。でもそこからが長かった。空気も汚くなるし、車が増えて渋滞がひどかった。信号が付いておらず、警官の手信号だが本当にみんな従っていない。市街地とて大通りを抜ければガタガタの道である。やっとの思いで17時30ごろにホテル到着。そこからは、初日に行ったM.C.donald fast foodという店で夕食。近くにトイレがある安心感で、比較的ものを選ばずに美味しく食べられた。ツルさんが、ネパールアイスというビールを注文してくれ、久しぶりのアルコールに結構酔っ払ってしまい、ホテルではよく眠れた。
3/8
今日はネパール最後の日。朝は初日に同じく、アスターホテルの5階オープンテラスでご飯です。シリアルとヨーグルト、ジャムトースト2枚、大きいバナナと、甘いものを腹一杯いただきました。ホテルの部屋は10時に引き払って、大きな荷物はツルさんのお家へ車で運んでもらい、まずは両替屋さんへ。ツルさんの顔見知りのお店なので、少しおまけをしたレートでルピーを手に入れ流ことができた。それから、お土産を買いにタメル地区をウロウロしました。とはいえ、ツルさんの知り合いのお店で、紅茶、ハチミツ、ヒマラヤ岩塩、8000メートル峰コンプリートトランプなど、いろんなものが買えてしまい、かなり満足してしまいました。それでもルピーを余らせても日本円に戻せないので、気に入ったデザインのTシャツや、ギア関係のものを買い、お昼ご飯へ。ファイアーアンドアイスと言う、外国人観光客で賑わうピザレストランです。ここでは久し振りに日本語っぽい言葉が聞こえてきました。それも気にせずピザに舌鼓をうち、サービスで出てくる辛そうな唐辛子系の山盛りスパイスは無視してせっせと食べました。
そのあとはパシュパティナートという、ヒンドゥーの火葬場があるお寺へ行きました。ここは、非常に大きく、お参りに来るヒンドゥー教徒、外国人観光客、サル、大道芸人、露天商、そして、花輪に巻かれて焼かれる亡骸の数々…。行きている人、死んでいる人、見送る人々が入り混じった不思議な空間でした。埃と煙も相まってきもちのいいものではありませんでしたが、手を合わせ、ボダナート寺院へ向かいました。道中、足に傷を負い、虫をわかせながらはあはあ行っているおじいさんや、物乞いをする人の多さに少し参ってしまうほど驚き、本当に助けなければいけない人を目の前にしても、実は助けることは非常に難しいことであると実感した。彼らは今日、無事生きているのだろうか…。それとは対照的に、その日はネパール歴の吉日らしく、多くの結婚式が街角で見られた。音楽隊や、踊る人々、飾り付けられた新車を見た。でもその横でボロボロの服でフラフラしている老人もいる。日本ではなかなか味わわない感覚に襲われた。悶々としながらボダナートに着き、ブッダアイと言われる目のマークに五体投地で祈る人々を横目に一周し、ツルさんのお宅へ歩いて向かった。
ツルさん宅は、3階建ての門構えの立派なおうちで、ツルさんのご家族と、カンネさんの息子も日本語を勉強するためにカトマンズにきて下宿をしていた。さらに、近くに住む、キタプシンさん、ダンクマールさんと娘さん、チョンベさんなど皆さんが集まり歓迎してくれた。そして日本のこと、ネパールのこと、いろんなことを話して楽しい時間を過ごし、最後はトリブヴァン国際空港まで車で送ってくれました。ツルさんのお家を出るとき、家族総出で門まで見送り、次は日本の山で会いましょうと言ってくれた時は、とても嬉しかった。空港では、ツルさんと握手をして別れ、コワモテの軍人みたいな格好のスタッフに誘導されいろんなチェックをうけた。国際空港はまさかの平屋で停電もしょっちゅう。さすがというかんじである。飛行機に無事乗ったら、あとは映画を見て過ごす。ぎゅうぎゅうな乗合タクシーに比べたらエコノミーで5時間くらい、トランジットで空港の硬いベンチで寝るくらいおちゃのこさいさいである。
3/9
香港に着く頃には、日付が変わっていた。深夜の静かな空港で、ベンチに横たわって2人で寝転がっていた。ウトウトしながら搭乗時間を迎え、体臭を気にしながらまたエコノミーへ。成田空港に着き、黄色い紙を提出してさて帰ろうかという時、なんと村上監督が片道2時間もかけて車で迎えに来てくださいました!乗り込み、2時間の帰り道、首都高から見えるビル群でやっと、帰ってきた実感が持てたのでした。車中では、子供たちには勉強する大切さは少しずつ伝わっていて、この活動をこれからも継続していくなら内容を変えていくのもアリかな、などと、実際に行ったからこそ感じたことを新鮮な状態で話せて良かったです。ちゃっかり夕飯もごちそうになり、解散しました。