当山岳部では慰霊祭の開催をはじめ、山行時の立ち寄りなどで大変お世話になっている明神館。一時期は、当部の学生がアルバイトをしていたこともありました。ということで、ご紹介です。
昔、トクゴー(徳本、徳吾、徳郷)と呼ばれた明神館の地は明神館から取って、明神と呼ばれていた。明神館横に、穂高奥宮参道標があり、明神の地から、穂高の神、明神岳(穂高岳の尊称)を拝み穂高神社奥宮(明神池)参拝。
早朝散策は、明神岳の朝焼け、小鳥のさえずり、明神池の朝もや。午前7時頃には、一番の見頃が終わります。
明神池(宮川の池)の事を明神といい始めているのは、10年ほど前に、梓川右岸に延長約5キロのハイヒールでも来れる、幅1mの観光用歩道が完成しそして池が有名になりすぎた為でしょう。
ちなみに昔からの左岸道は河童橋より2.7キロ、30分幅2.5m、小梨平を抜け、林間を明神岳最南峰を見て明神館に突き当たる。明神館から、明神池は、5分ほどしかない。
ご存知のように、上高地、明神とは十字路分岐点の事。
ウェストンの紹介にも、、穂高岳の事を、別名、立穂の山、と呼び、南麓を梓川が流れとある。いわゆる明神岳の事を、指している。大正時代初期になされた山岳名の大変更により、穂高岳と言われていた山群が、明神岳の山群と、前穂の山群に、分けて地図表示されることとなったのです。
明神岳は、穂高岳の尊称にして、穂高連峰の中心の山となります。
明神岳の山群全部と前穂にかけてが、昔の穂高の主体であったのですから、近年もてはやされている、河童橋からみる穂高連峰は、明神岳も、前穂も目立たなく、穂高の奥にあるはずの、奥穂が真っ先に見えます。実は穂高を側面から見ていることにもなります。
上高地の歴史
綿津見(わだつみ、海神)の神の嫡子、穂高見命、上高地に降りる。俗名、穂高見命の本名は、美日金咲命(ウツシヒガナサクノミコト)。神武帝の叔父であり、海軍大臣、外務大臣。命が穂高の山(現在の明神岳岩峰群)を愛した為、穂高見命と言われたのが実情であろう。里宮には、穂高見命の外、日本の最高神、天照大神等の神も大神として祭られている。
上高地の明神地区は、特別に後まで神河内(かみこうち)と、言われ、明神岳最南峰は、特に立て穂の山と呼ばれていた。
江戸時代、松本藩による、樹木の伐採出し上高地に入った約14人ほどの出張役人は、トクゴー、(徳郷、徳吾)の役人用宿泊小屋で数日過ごしたトクゴーといわれた場所は、明神館の有る明神の地の事この時期から、穂高神社奥宮(明神池)参拝が有った。
明治時代から。材木伐採と牧場の時代そして登山の黎明期。作家、小島烏水により、温泉宿(上高地温泉の元)、徳本の小屋(明神館の旧名)、宮川の小屋(嘉門次小屋の旧名)の三つが上高地にあったことが確認されている。徳本の小屋には、放し飼いの牛馬を監督する男が住んでいたという。
昭和時代、近年。観光と、登山と、ウォーキング。登山、から始まり、次に物見遊山。今は、上高地全体を歩くのがブーム。
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